神経生理学者でもあり、心理学者、ロルファーでもあるピーター博士は、UCバークレー校での研究でストレスとトラウマの深い関係性を探っているうちに、なぜ野生動物は日常的に命がけの危機に襲われるのにトラウマにならないのだろうという疑問を持ちました。そこから彼のライフワークが始まり、トラウマというのは、起きた出来事がトラウマなのではなく、そのことによって神経生理的な反応が変わってしまうことが問題であり、未完の防衛反応であると提唱しました。
本来、野生動物の危機に対する反応は、逃げるか、闘うかのどちらかです。しかしそのどちらもできない場合は、凍りつき(硬直・不動)反応が起こります。この逃走・闘争・凍りつきの3つの反応は、生死を賭けて身体が命を守るための防衛反応なので、そのためのエネルギーは爆発的なものです。危機が迫ると、まず交感神経が活性化し、逃げる、または闘う準備のために手足の筋肉と心臓に力と血液が素早く巡ります。しかしそれが不可能な場合は、副交感神経系がシャットダウンして「死んだふり」と言われる凍りつき反応が起こります。このように身体を超省エネモードにして硬直させると、殺されるときの痛みを感じないという利点があります。また、野生動物は生きている獲物にだけ興味を持つという性質があるため、凍りついて動かない間に見逃されて逃げられるかもしれないという利点もあります。どの場合も生死を賭けた本能の防衛反応ですから、その時に身体に湧き上がるエネルギーは莫大なものです。逃げ切れたり、闘って追い払えたりした場合には、この莫大なエネルギーは消費され、防衛反応は完了するのでトラウマにはなりません。もし捕らえられた後に運よく助かった時などは、本能的に身体を震わせることでそのエネルギーを放出して日常に戻っていきます。
これからご紹介する2つの動画は、野生動物の本能の防衛反応を見ることができます。野生動物が捕らえられるシーンや、狩猟場面が出てくるため、ショックを受ける方もいらっしゃいますので、ご自分の判断でご覧いただきますようお願い致します。
①ピーター博士によるSE™療法の紹介
動画の中で、ホッキョクグマが調査のために麻酔銃を撃たれた後、麻酔から覚めて通常状態に戻るための身体の本能的な動きを見ることができます。この身体の震えこそが野生動物がトラウマにならないための本能的な神経生理系の調整と放出なのです。11分40秒からご覧ください。また動物の「死んだふり(硬直・不動)」の状態は9分19秒からご覧になれます。
https://www.youtube.com/watch?v=nmJDkzDMllc&t=705s
②レパードに襲われたインパラが運よく助かり回復する様子
バブーンがレパードとハイエナを追い払ったので、インパラは凍りついたまま取り残されます。しばらくすると凍りついていたインパラの腹部が呼吸で膨らみ始めます。それから目が動き始め、起き上がって身体全身体が震え始め、震えが完了すると何もなかったかのように走り出します。
https://www.youtube.com/watch?v=lAtW7nJUcRA
このように、野生動物が日常的に襲われてもトラウマにはならない理由は、本能の自己防衛システムである凍りつき反応からの自律神経生理系の自己調整のおかげなのです。本能に身を任せると自然に身を守れるということがよくわかります。
しかし、人間は思考が邪魔してこうはいきません。逃げる、闘うという本能的な防衛行動を抑制されがちな人間社会では、凍りつきがよく起こります。ただし野生動物の凍りつきと違い、人間の身体は野生動物ほどの超省エネモードの不動状態、つまり血圧や心拍などが低下しすぎた状態では死に至るので、そこまでの超省エネモードではない凍りつきに陥ったまま行動するということが起きます。凍りつきは乖離とも言われますが、凍りつきは神経生理的な身体症状であり、乖離は心理的症状と言われています。また、人間社会ではトラウマ的な出来事が起きた時に誰かの助けがあればトラウマにはなることはありません。または軽度で済むでしょう。危機に見舞われた時に、恐怖感に襲われ、誰からの救いもなく、さらに非難されて無力感や絶望感を味わい、その上、自力で逃げることも闘うこともできなくて安全を確保できなければ、それはトラウマとなります。
凍りつきからの回復時、大脳皮質が特殊に進化した唯一のほ乳類である人間は、「思考」で危機的状況を「判断」しようとします。動物としての本能に身を任せて身体を震わせて日常に戻ることはしません。人間社会では「社会的に正しい行動」を選択することが生き残るための最善の策であることが多いので、凍りついたまま、正しい行動をしようとします。例えば交通事故の場合、人間は意識があって動けることがわかると、自分の身体へのショックや怪我の程度は無視して、まず相手のことを心配し、被害状況を確認し、警察や保険会社に連絡を取ることを考えて行動し始めるでしょう。これは社会的には「正しい」行動でしょうが、身体には最悪です。本能的に防衛のために引き起こされた闘争・逃走反応の莫大なエネルギーは、消費される機会を逃し、放出できずに身体に蓄積されることになり、後にさまざまな症状や行動、感情などのトラウマ症状として表れてくるというわけです。つまり神経生理の恒常性のバランスが崩れてきて、交感神経優位になって不安が高くなったり、パニック症状が出たり、副交感神経が凍りついてうつ状態になるといったことが起きてきます。
また、凍りつきや乖離の時には、理由や意味づけをして起きた出来事をなかったことにしたり、感情を抑圧したり無視したりすることもよく起こります。無意識なことが多いので、自分がそれをしていることに気づかないこともあるし、行動はしていても記憶が断片的だったり、まったくないこともあります。また事故や災害などだけではなく、成育上の抑圧や虐待や愛着問題によっても凍りつきは起こります。乖離の状態が激しいと、自分の中に複数の人格が存在するという多重人格という症状が起きることもあります。これらは社会生活を送る上では不便だったり、害があるように見えますが、すべて命を守ることを優先するために本能が選んでいる防衛方法なので、回復にはその人格すべての統合が必要になってきます。
トラウマに起因した症状は軽いものから重いものまで個人差があるので、PTSDとまで診断がつくほどの症状がいつも出るとは限りません。重軽度は起きた出来事の重篤さや、個人の成育歴や人生経験、身体質、健康度などによっても変わってきます。近年注目されてきているレジリアンスにも大きく関係しています。症状は年数が経ってから現れてくることもあるので、過去の出来事との関係性が見えにくいこともありますし、過去の辛い身体験で身体の許容範囲がすでに狭くなっているところに、さらにまたストレスがかかると、以前には対処できていたようなことでも対処できなくなることもよくあります。
●自律神経
交感神経と副交感神経があり、交感神経系は「興奮状態、好戦的」、副交感神経系は「休息、回復」の自律神経といえます。この2つが相反する作用をもち、必要に応じてどちらかの働きを活発にして生身体内のバランスを保っています。
●交感神経系
身体を活発に活動させるときに働く神経系です。運動している時、怖い時、不安な時、怒っている時、楽しい時、興奮している時、感情的になる時などは、交感神経が活性化していて心拍数が上がり、汗が分泌されます。緊急時の闘争・逃走反応の時にはこの神経系が極度に活性化し、手足の筋肉と心臓、肺、気管支に血液とエネルギーが集中することで、走ったり、闘うことができます。その場合、瞳孔は開き、血圧は上昇し、心拍数は上がり、気管支は拡張し、血管は収縮し、手足の筋肉に力が入ります。心理・生理症状は、不安、パニック、過活動、大げさに驚く、過剰警戒、リラックスできない、そわそわする、消化機能不全、下痢、不眠、怒り、感情が押し寄せる、慢性の痛みなどです。
●副交感神経系
リラックスと回復の神経系です。交感神経が活発になって覚醒・興奮状態になった身体を落ち着かせて休ませる働きをします。副交感神経が優位になっている時には、休息、消化、睡眠、排泄、生殖機能、身体の回復などが行われます。身体が落ち着いている時には、胃液・膵液の分泌、腸の蠕動運動、唾液分泌、心肺機能抑制、排尿促進、血管拡張などが起きます。しかし、闘争・逃走反応が役に立たない時、つまり逃げることも闘うことも不可能な時、副交感神経は凍りつきという超省エネモードになり、身体を守りに入るのです。凍りつきの時の心理・生理症状は、鬱、感情麻痺、無気力、倦怠感、生きていないような感覚、疲弊感、慢性疲労、方向感覚消失、乖離、複雑症状、痛み、血圧低下、消化機能低下、便秘などです。
1996年にポージス博士が発表した多重迷走神経理論(「The Polyvagal Theory」by Dr. Stephen Porges)は、心理の分野とくにトラウマ治療に革命的なものでした。多くのトラウマ治療の提唱者にとって、自分の開発した手法を神経生理学的に説明することが可能になったわけです。
自律神経系には交感神経系と副交感神経系の2つの働きがあるというのが従来の発見でした。しかし、ポージス博士によると、系統発生的に迷走神経には2種類あり、つまり自律神経系はぜんぶで3つあるというのです。交感神経、腹側迷走神経複合体、そして背側迷走神経複合体です。迷走神経だけではなく、他の神経系とともに形成されているので「複合体」と呼ばれています。この3つの神経系は生命の危機の防衛反応において、階層的に使われます。
背側迷走神経複合体は、脳の延髄の迷走神経背側運動核が延髄の孤束核とともに形成されています。腹側迷走神経複合体は延髄の疑核が三叉神経運動核・顔面神経核と共に形成されています。背側迷走神経複合体が起始する迷走神経背側運動核と孤束核が延髄の「背中側」に位置していて、腹側迷走神経複合体が起始している疑核は「お腹側」に位置しているため、この名前がついています。
背側迷走神経複合体は、単細胞生物にも存在する最も古い副交感神経系です。背側迷走神経複合体は、主に横隔膜より下にあり、適度に働いている時は、消化、睡眠、排泄、生殖機能、身体の回復などを司り、いわゆる「リラックス、休息モード」が働きます。そしてこの背側迷走神経複合体が過剰反応すると、生命の危機時のシャットダウン、凍りつきになるのです。
交感神経系は、背側迷走神経複合体の次に発達した神経系で、身体を活発に活動させるときに働く神経系です。緊急時には「闘争・逃走モード」がオンになります。
腹側迷走神経複合体は、系統発生的には人間を含むほ乳類だけに発達した最新の神経系と言われています。社会的なつながりを促す働きで、主に横隔膜より上にあり、目、表情、声質、声帯、口、顎、頭、心臓、気管や肺などに関わって、人と交流する時の「社会友好モード」に使われる神経系です。
つまり進化論的には、最古が背側迷走神経複合体、次に交感神経系、そして最新が腹側迷走神経複合体の発達の順です。ポージス博士の提唱する、階層的な防衛反応というのは、この3つの神経系の働き方です。
例えば、日常で私たちは腹側迷走神経系を使い、微笑んだり、話したり、声のボリュームを調整したりして、人との社会的なつながりを保っています。しかし危険な状態におちいると、交感神経系が活性化して優位になり、逃げるか、攻撃するという防衛反応がオンとなり、それもできないとなると、最後に背側迷走神経系が優位となって、身体は硬直し凍りつき、乖離状態になるというように働きます。どれも生き残るための戦略として身体が自然に選択する防衛反応なのです。
身体に溜まってしまったトラウマのエネルギー、つまり緊急時に闘争・逃走反応が完了せずに神経系に滞ってしまったエネルギーの解放には、ピーター・ラヴィーン博士の開発したSE™療法は最も適したアプローチと言えるでしょう。なぜSE™療法のアプローチが癒しに繋がるのかという根拠は、スティーヴン・ポージス博士が提唱するポリヴェーガル理論(多重迷走神経理論)によって神経生理学的な説明が可能になりました。
身体の神経生理系に溜まったエネルギーはさまざまな機能に悪影響を及ぼし、自律神経系のバランスが崩れて調整がうまくいかなります。例えば、人間関係での危機が起きると、通常まず人間は腹側迷走神経複合体を使い、人とのつながりの中で表情や口調を駆使して社会的な友好関係を保とうとします。しかし危機状態になると、次に交感神経が活発になり、闘うか逃げるという防衛策を取ろうとします。それも出来なかった時に背側迷走神経複合体の過剰な反応が起こり、身体は凍りつき・乖離という生き残りのための最終手段を取ります。
SE™療法を使ったセッションでは、クライアントのこの3つの神経系がどうなっているかというところに着眼します。言葉では「大丈夫です」と言っても、表情は怯えたり不安が浮かび、身体は緊張していることがあります。また虐待など辛い体験をニコニコしながら笑顔で話すこともあります。
回復のためにSE™療法アプローチでは、例えばこのように働きかけます。
もし交感神経が活性化している場合には、それを鎮静化させて人とのつながりが持てるようにします。つまり不安だったり怒ったり怯えたりしている人は交感神経系が落ち着くと、腹側迷走神経複合体が働き出して、目を合わせて微笑んだり、普通の会話ができるようになります。
凍りついている人、または乖離している人は、背側迷走神経複合体がシャットダウンしているので、少しずつ身体感覚を取り戻すことが大切です。凍りつきや乖離は痛みや感情などの麻痺でもあるので、身体に戻ってくる=感じたくなかった感情や痛みに触れことになります。つまり凍りつきから溶けてくると、交感神経系が活性化して不安や恐怖や怒りが出てくるので、それを少しずつゆっくりと時間をかけて落ち着かせて、腹側迷走神経複合体が働き出すのを促します。
こういったプロセスを繰り返していくことで、次第に本来の自己治癒力が戻り、自律神経生理の自己調整能力が回復してくると、些細なことでは不安や恐れを感じなくなり、怒りも静まるようになってきます。そうすることで自分自身への安心感が増えてきて、矛盾がなくなり、自己一致する感覚が増えていき、自分らしく生きているという実感が持てるようになっていきます。